2025年4月号
4月号より休刊いたします。
長らくご愛読いただき有難うございました。
今後、荒丸の古代史観はブログ「新説!荒丸の日本古代史」を
参照してください。
2025年3月号
新「紀年復元法」と「二倍年暦」
「古代天皇たちの真実(伊藤雅文 著)」のサブタイトルに「紀年復元法」とあったので読んだが、ネガティブな意味で面白かった。今までの紀年復元の試みを論じ、その欠陥を指摘し、異なる方法を思い付くいたと述べている。しかし二倍年暦を論じた部分ではあまりにも浅く薄い理屈で放棄しているのに驚いてしまった。
著者の思い付きの「紀年復元法」は日本書紀の中で史実が記載されていない年、 すなわち空白年を省き、そして「日本書紀」を圧縮することによって「原日本紀」なるものを作り、古代史を再考する試みである。ただ空白年を省くことができる根拠、また空白年が存在しない理由に関して十分な説明はなかった。私はこの本を読んで直ぐに気になったのは、圧縮した「原日本紀」から「日本書紀」を完成させる過程だった。
「日本書紀」には史実が記述されていない空白年が多くあるのだから、「原日本紀」に空白年を付け加える作業が必要だ。国史編纂者たちは空白年を埋めるために「ここは何年空けようか。五年、十年、いや十五年?」というような作業を行っていたのだろうか。
大化の改新以後、国史編纂は国家事業として重要な位置付けをされていたはずだ。その事業の中で、上記のような空白年挿入作業があったと考えるのはいささか不謹慎な見当外れに思う。著者は記事を圧縮する思い付きはあったが逆の作業が不可欠との考えに至っていなかったようだ。
さらに空白年を挿入しすぎて、百歳を超える天皇が多出している。「原日本紀」から「日本書紀」の完成に向けての作業で、なぜこのようなことが起きるのか。 書紀編纂者がアホなのか、それともこの紀年復元法に欠陥があるのか、どちらだろう。
次に著者が放棄した二倍年暦について彼がいかに中国史書の解読力不足と知識の欠如を示しているかを論じたい。まず「魏略」から「其俗不知正歳四節 但計春耕秋収為年紀」を引用し、「普通に読めば倭人が1年を2年と数えているなどと解釈することは不可能です。」と書いている。
上の「魏略」を口語文にすると、「其の人たちは正しい一年と四季を知らない。但し春の耕作期と秋の収穫期をかぞえ(計)て年紀としている。」となる。原文の文字を正確に口語に置換したつもりである。この訳文から「1年を2年と数えているなどと解釈することは」可能だろう。「正しい一年と四季を知らない」のは春夏と秋冬をそれぞれ一年としているからと理解すべきだ。
「魏志倭人伝」や「後漢書」には「その人(倭人)寿考(長命)、あるいは百年あるいは八・九十年」とある。倭人は長生きだと驚いて記載している。古代においてありえない長寿社会だ。しかし二倍年暦に基づくならばその半分だから妥当な数字となる。この一文を著者は気付かなかったのか、無視しているようだ。
最後に「古代にそのような(1年を2年と数えていた)暦があったという事例は筆者の知る限りにおいてはですが、報告されていません。」と著者は書いているが、神社の年中行事に残っていることを彼は知らない。6月の晦日と12月の大晦日に行われる「大祓の神事」である。
「夏越しの大祓」と「年越しの大祓」と呼ばれるもので、神話時代のイザナギ命が禊をしたことに由来するとも言われている。1年を約365日とする中国暦が導入されるまでは、2つの行事とも「年越しの大祓い」として春と秋の直前に行われていたと考えてもそれほど的外れではないだろう。
私の父が6月と12月の晦日に「大祓の神事」として神棚に野菜を供え「カシコミ カシコミ モウサク」と祝詞を呼んでいた記憶があった。ところが拙著「いにしえの散歩道(幻冬舎刊)」の中で二倍年暦を論じた時、この「大祓」を「二倍年暦」と結びつけることができず、後に悔しい思いをした。この年2回の「大祓の神事」が「二倍年歴」の傍証となりうるのかどうかは今後のお楽しみだ。
◎可笑し書評
Amazonの書籍のコメント欄に投稿した書評を紹介するためのタイトルです。
◎大宰府は大和政権が造った都市か? ★☆☆☆☆
大宰府跡 赤司善彦 著 同成社
本書を読み始めてガッカリした。 著者は「大宰府」が大和朝廷によって造られたとの観点に立って論証を進めている。 はたしてそれでいいのだろうか。 著者は「大宰府が置かれた地域は中央に対する辺境性と大陸文化摂取の国際性豊かな先進性とが重なった場といえる。」と述べている。
しかし文明や文化は中心地に近い地域から徐々に遠い辺境へと伝えられるのが一般原理だと考えられる。 交易や移住により人や物が移動することにより伝播する。 その観点に立てば、倭国において中華文明の恩恵を最初に受ける地域は北九州であろう。 東方へ漸次広がり、大和地方へは時間的な遅れが生じる。これは弥生、古墳時代を通して言えることである。 大和地方が辺境から脱するのは、遣隋使、遣唐使の渡航によって直接文明の文物を手中にするときを待たなければならない。
著者は「大宰府」の都市プランは平城京と同じ設計思想で、ミニ平城京が造られたと述べている。 しかし忘れてはいけないことは、平城京もまた中華帝国の帝都や郡都のミニチュア版だということだ。 つまり「大宰府」も平城京も規模は異なるが、都市設計の思想は中国の模倣であり、必ずしも平城京を真似て「大宰府」が造られたとは限らないだろう。 むしろ北九州の方が朝鮮半島との交流が多く、中華都市の情報は多く得られたのではないだろうか。
大和地方の後進性は文字(漢字)の理解力の低さにも表れている。 この点は拙著(幻冬舎刊)に詳しく論じた。 その一例が「王」の用法である。 本来「王」とはある地域の支配者、統治者に付けられる称号である。 しかし大和では古事記に見られるように数多くの「王」が存在する。 日古坐王に始まり120人を超すありさまだ。 大和天皇家では皇位継承権のない皇子に「王」が与えられる。
大和地方における漢字理解の遅れに関して、「府」にも同じことがいえる。 「府」とは本来「蔵」「役所」「みやこ」の意味を持っている。 大和政権はこの意味を理解して用いているのだろうか。 律令制における「府」には「大宰府」の他に「衛門府」、左右の「衛士府」「兵衛府」のみである。 また延喜式での「府」は「鎮守府」、左右の「近衛府」「衛門府」「兵衛府」である。 これら以外の役所に「府」のつくものはない。
これらの「府」が付く役所を一覧すると、大和政権が「府」をどのような意味で用いていたかよく分かる。 武装(軍事)組織である。 「衛」や「鎮」は軍事的な機能を表現している。 「大宰府」も防人司を兼ねており軍事的な役所である。 白村江の敗戦により、日本は九州「大宰府」とその周辺に防衛拠点を置かざるを得なかった。
ここで疑問が一つ、もし大和政権が九州の守りとしての軍事的役所に「大宰府」と名付けたと考えると、なぜ「大宰府」なのか。 「大宰」とは百官の長を意味し、文官、武官を統率する役人のトップといえる。 それに対して大和政権が軍事的役所とした「府」を付けることに違和感がある。
もし「大宰府」が磐井の乱以前に九州の豪族(例えば磐井氏)によって造られた都市だと仮定すると、これらの違和感が払拭されるように思える。 九州の都市「大宰府」が磐井の乱によって大和政権に占領されたならば、九州の軍事拠点として重要な地となるだろう。 白村江の敗戦後にさらに軍事都市化を推し進めたことは、水城や朝鮮式山城の建設を見ると明らかだ。
大和政権が政治組織を律令や延喜式により制定するとき、「大宰府」の軍事的役割に鑑み、他の軍事的役所のみ「府」とした。 そう考えることで、なぜ大和政権が軍事組織に「府」を付けたかが理解できる。 さらにその考えを推し進めると磐井の乱以前の「大宰府」に関して、九州の豪族が文字通り「大宰」の「府」を造り割拠していた可能性があるのではないだろうか。 拙著においてもこのことを論じた。 「大宰府」跡の発掘、研究にはこのような視点も必要だと思われるのだが、その視点が全くなかったのは残念だった
2025年2月号
「枕詞」の原点を考える
「枕詞」は学校の国語で必ず教えられる項目である。言語学者や 国文学者が綿密な研究を行っているが、なぜ「枕詞」というものが創成されたかについて教えられたことはない。いろいろな分類がなされているが、「枕詞」の多くはかかる言葉を説明する、あるいは連想させるものが多い。
「岩走る=垂水、滝」「夏衣(なつごろも)=薄し、一重」「望月の=満つる,足れる」「入日なす=隠れる」など「枕詞」は説明の語や文になっている。
これらの例は漢字で表記して意味の通じる「枕詞」であるが、「枕詞」の中には漢字で表記できない意味不明のものも少なからず存在する。「つのさふる=岩、石見」「なまよみの=甲斐」「ししくしろ=黄泉(よみ)」「ひさかたの=天、空、光、星、雨など」「あしびきの= 山」などほんの一例である。
漢字に変換できない意味不明の「枕詞」とは何を意味するのだろうか。これらの「枕詞」 は漢字伝来以前に話し言葉として用いられていたと考えると、漢字が伝えられた時には意味が知られていない死語になっていたのではないか。漢字伝来の前は古墳時代になるが、この時代はまさに言葉の共有化が起きた時代と考えられる。
拙著「いにしえの散歩道」において論じたように、古墳時代には多面的な文化の共有が起きたと考えられる。古墳の築造には石工をはじめとする技術集団の存在が不可欠である。古墳時代400年に万を超える古墳が造られたということは、毎年日本のどこかで数十基の古墳建設の現場があったことになる。これらの石工技術集団は各地の豪族に属しているというよりも、その高度な技術を持つ点で独立性の高い集団だと考えられる。彼らが古墳築造の依頼者の要望に応じてその技術を発揮する。その工事過程において技術者と現地人の間での意思疎通のため、言語の共有化が起こる可能性は高いと考えられる。
時代を通しての縄文人、弥生人、渡来人のそれぞれのコミュニティが、古墳築造によって共通言語を必要とする状況に置かれたことが、「枕詞」の原点であったのではないだろうか。つまりある語に説明のための語や文を重ねる理由は、より多くの語彙を共有する方法としてあり得ると思う。
このような方法による言葉の共有化は日常の会話においては徐々に不要のものとなったが、歌謡の中には残されたのではないか。さらに長歌から短歌(和歌)へと引き続き使用されたと推測される。六世紀に大和政権が確立すると、大和地方で使われていた言語(やまと言葉)が中心となり、なじみのない地方の言葉は日常において使われなくなった。これらの死語の中で歌に残されたものが漢字で表記できずひら仮名で示された「枕詞」だろう。意味が理解できなくなったので漢字を当てることができないのだ。
和歌に「枕詞」を用いる様式が確立すると、そこから言葉遊びが生まれている。一つが重ね言葉だ。「松ヶ根の=待つ」「飛鳥川=明日」のように意味では何も説明せず発音が同じ言葉を重ねて遊んでいる。
また難読漢字となる読みの入れ替えも起きた。「飛鳥」をなぜ「あすか」と読むのか。「飛ぶ鳥の=明日香」の「枕詞」から、飛ぶ鳥と書いて「あすか」と読ませている。明日香は地名で鳥が多く飛来する干潟か湖沼が近くにあったのだろう。また「日下」を「くさか」と読ませている。現代でも苗字として使われているが、「古事記」には大日下王の使用例がある。これも 「日の下の=草香」の「枕詞」に由来する。
漢字の伝来以後、無理に漢字を当てることにより拡大解釈をした例が「ひさかたの=天、空」である。これを「久方の= 光、星、雲、雨など」のように漢字を宛てることにより意味が変化した。元々は「日射方の=天、空」であった。日の差す方は天であり空であるはずだ。 ところが漢字の「久方」を宛てることにより「悠久」の意味を持たせ、かかる語を増やしたと推測される。
「枕詞」の原点を探す試みを、古墳時代にさかのぼってなした。その当時はいわゆる「やまと言葉」よりさらに古い言葉を共通語とする過程で、語彙の説明のために「枕詞」の原型があったと推測した。「枕詞」は日本語創成の鍵になると思われるので非常に興味深い。
閑話休題2 NHK「大河ドラマ」考
歴史好きにとってNHKの大河ドラマは興味あるテレビ番組である。 私は第二作目の「赤穂浪士」から多くの作品を視聴してきた。 高橋幸治の織田信長(太閤記)、緒形拳の武蔵坊弁慶(源義経)、加藤剛の平将門(風と雲と虹と)、仲代達矢の平清盛(新・平家物語)平幹次郎の斎藤道三(国盗り物語)など名優の熱演が思い出される。 歴史的人物なのに俳優の顔が浮かぶほど印象深いものであった。
はじめの頃は時代小説を原作とした人物が多く、骨太の歴史ドラマとして歴史を主役とした作品であった。 ところが製作者がマンネリを嫌ったのか、製作意図に変化があった。 その一つがホームドラマ化である。豊臣秀吉の家庭を重点においたり(おんな太閤記)、妻の献身による出世(功名が辻)や夫婦間の繋がり(利家とまつ)を描いた作品が多出するようになった。
このように歴史的人物の家庭や夫婦間の人間模様を描くことで、歴史が主役の座から退く傾向がみられた。若者や女性にも興味を持ってもらいたい製作側の考えによるものであろう。
また主だった歴史上の人物を何度も主役にすることにより、主役が小物化することも増えてきた。歴史的大河の脇役や埋もれた人物を取り上げることもあった。 山本勘助(風林火山)、直江兼続(天地人)、井伊直虎(おんな城主直虎)などが考え付く。
最近の傾向はコント化である。 「鎌倉殿の13人」では北条義時と三浦義村が酒を酌み交わし、義時が酒に毒を盛ったと言った時だ。 義村はそれを聞いて苦しみ出すが、毒が入っていないと義時が言った瞬間、義村が急にスッと立ち上がったシーンでは思わず「そんなことあるかい!」と突っ込んでしまった。
「どうする家康」の前半はコントの連続で、家康が道端で武田信玄と出会い、さんざん脅されるシーンを見たときも突っ込みを入れたくなった。 また信長、家康、秀吉の三英傑揃い踏みが城内、戦場を問わず多出したのもコント仕立てと思わざるを得なかった。
最新作の「光る君へ」は秀逸の作品である。 藤原道長を頂点とした平安貴族の政治を縦糸に、主役の紫式部をはじめとする女流文人の活躍を横糸に織り成す近年稀な見応えのある物語展開であった。 脚本家の力量に加え、出演者の演技も好感を持てたところだ。 平安時代という資料の少ない時代であるにもかかわらず、違和感の少ない「大河ドラマ」である。 歴史を主役として、繊細かつ優雅な平安絵巻のドラマは、武将が活躍する骨太のドラマと一味違う面白さを感じさせた。
次回作は浮世絵版元の蔦屋重三郎を主役とした作品だ。 武家社会の中で庶民の文化を支える彼の反骨精神がどのように描かれるのか楽しみだ。
2025年1月号
真実は単純で美しい
このタイトルの至言をどこで見出したか忘れたが、天文学に関する出来事に由来したものだと記憶している。 中世ヨーロッパにおいてキリスト教が全ての思想を統制していた時代、宇宙の中心は地球であり他の天体は全て地球の周りを回っている天動説を絶対命題としていた。
太陽や月は1日1回の、ほとんどの星は年1回の円運動の周回軌道をとる。 ただ円運動をしない星があった。 惑星である。 天文学者は惑星の精密な軌跡を観察し記録した。後戻りをする運動や 円運動の中をさらに円運動を繰り返すものも観察された。
このような惑星の複雑な動きを、天動説の根本を逸脱せず説明する試みは長年続けられていたが、全て無駄であった。 ところが発想の転換を考える科学者がいた。 もし地球が動いていると仮定した場合、星々の動きはどうなるのかを 観察記録から計算した。 地動説の夜明けである。
しかし 夜が明けきるまでには多くの異端裁判が繰り返され、犠牲になった科学者も多かった。 彼らの努力が実を結び、太陽を中心とした楕円軌道の惑星運動が正確に計算された。 それは単純にして美しい星々の動きであった。
その後の科学史は、複雑な事象を単純化し新たな次元へブレイクスルーした発見を教えてくれる。 単一遺伝子の遺伝法則、宇宙の起源まで想定させる相対性理論、遺伝情報の発現を解明したDNAの二重らせん構造など。
複雑で混乱したデータ群を単純化して、原理、法則、構造に統合するブレイクスルーは主に自然科学の分野でなされたものである。
人文科学分野で、このような事象の単純化による発見を考えると、シュリーマンのトロイ遺跡の発掘が思い起こされる。 素人の発掘作業により遺跡が荒らされたとか、発見したトロイ遺跡は発端となったホメロスの叙事詩「イリアス」に記されたトロイ戦役の時代のものではなかったと言った逸話が色々取り沙汰されている。しかし 彼は「イリアス」の伝説的な非史実部分を削ぎ落し、歴史として単純に読み取ることに成功したのではないだろうか。
ひるがえって日本の古代史、特に古墳時代の様相を顧みると混乱の極みにある。 邪馬台国の不毛の論争や実体の見られない大和王権の存在により諸説紛々の状況になっている。
邪馬台国論争が不毛である理由は、状況証拠の重みのかけ方や、方角や里程の数字を自分の都合で変更させることにより、好き勝手な解釈が横行することによる。 思いつきの発想で論争に決着がつくと考える合理性の欠如に気づかないのだろうか。
決定的な証拠は古墳の石棺の中に「親魏倭王」の金印が見つかった時だろう。 その被葬者が女性であれば、かなりの確率で卑弥呼の墓と断定できるだろう。 もっともこのような発見は 期待薄だが。
また実体がないと私は考えるが、大和王権を実在すると思い込む理由は、大和地方に巨大な墳墓が存在する、最も古い(と考えられている)前方後円墳の「箸墓古墳」がある、各地の土器がこの地方に多く出土するなどが根拠らしい。 しかしこれらの状況証拠は必ずしも大和王権の実在を証明していない。
巨大古墳の存在はその地域が経済力のあることを示しているが、その経済力の多くが古墳築造に消費され軍事大国になり得ない。 最も古い(と考えられている)前方後円墳が存在するというが、その形が突然発明されたとは考えられないだろう。円墳や方墳が徐々に前方後円墳に変化する過程の解明が不十分である。 最古の前方後円墳と決めつける前に、変化の過程に留意すべきだろう。
各地の土器が大和地域で出土することは、この地方が経済的に裕福であり購買力があったこと以上のことは言えないだろう。以上の論考により 大和王権という政体を仮想する必要がないのである。
ではこれらの混乱を収束する方法はあるのだろうか。 それは「倭の五王=天皇」説を見直すことにより成し得る。 「倭の五王」が大和天皇家の事跡でなく 北九州の豪族のことだとする考察は、拙著「いにしえの散歩道」で詳細に論じたのでここでは述べない。しかし大和地方における漢字使用の遅れを指摘したい。
「記紀」成立時、大和地方では表意漢字に訓読みの注釈をつけるほど漢字は十分理解されていなかった。これは倭王武の宋皇帝への上表文の漢字表現と相容れない。 この上表文を精読し、大和と九州の地政学的利点を勘案すると、「倭の五王」は九州の豪族と考えるべきなのだ。
このように考えると「倭の五王」の2世紀前に邪馬台国が大和地方に君臨したとする可能性は考えにくく、「漢委奴国王」「親魏倭王」「安東大将軍・倭王」の王朝が九州において連綿と続いていたと、古代史を単純化できるだろう。
この王朝は「磐井の乱」という大和の対九州戦に敗れ、その結果大和政権が成立するという古代史の流れは理に適い、かつ単純にして美しいと思うが読者はどう感じるだろうか
◎可笑し書評
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◎言葉のトリックに騙されそう! ★☆☆☆☆
「初めての日本古代史」 倉本一宏著 ちくまプリマ―新書
この本のタイトルの意味がわからない。 購入した動機は「はじめての」が「誰も考えなかった」の意味にとらえて期待した。 しかし内容に新奇なアイデアはなかった。 では古代史の初心者向けということかと思いなおすと、「おわりに」で著者はそのような意図があると述べている。 しかし読み進むうちに、初心者向けの本にしては、独断的な意見が多すぎるようだ。 学界でも明確になっていない事柄に対し、初心者相手に自分の考えのみを提示し、印象操作、イメージ展開を行う一方的な著書だと理解できた。
第二章冒頭に「三世紀中頃、奈良盆地東南部の纏向遺跡を王宮として、倭王権(わおうけん)が西日本各地の権力と同盟関係を築いていた。」とある。 思いきった内容である。 同盟関係? 同盟とは同じ問題意識の下で盟約を結ぶことを意味する。 この時代どんな共通問題があった? どのような約束をしたのか? 口約束で?
騙されてはいけない。 同盟関係なんてものはない。 ただ地方各地に強力な豪族が並立していたにすぎない。 国際外交が展開されていたかのような印象操作は止めた方が良い。また「纏向遺跡を王宮として」とは想像力が豊かなことか! 纏向遺跡にて発掘された大型建造物のことを先走って王宮だと言っているが、可能性の問題を著者は確定させている。 騙されるな!
次のページに「纏向遺跡は、それ以前はなにもなかった地に三世紀初頭突如出現し、約百年間経営されて消えていった遺跡である。 直径1.5~2キロメートルという非常に大きな規模を持ち……」と書かれている。
「それ以前はなにもなかった地」かどうかは証明されていない。 百年間存続したものについて、「突如出現し」の表現は適切か? 規模1.5~2キロメートルと言っても、全体を土塁や柵で囲っていたわけでなく、土器片が散乱していた範囲からの類推にすぎない。
巻向の地は扇状地である。 豪雨の際雨水に流された土石が大量に堆積し、川の流れを変える。 巻向川の氾濫の痕跡も見られる。このような地に王宮を建てたいだろうか。 王宮の近傍に家臣の家や兵舎、武器庫、宝物庫、食料庫などを建てたり、住んだりしたいと思うだろうか。
「全国各地の土器が出土しており、列島の物流の中心でもあった。」としている。 物流の中心? あたかも商人達が物品を持ちより取引をして、各地に配送する印象を与えるかのような表現である。 貨幣経済が未発達な時代のイメージではないだろう。 「各地の大量の土器」の出土の意味を理解できていないようだ。
土器が移動する理由は何か? 商品として運ばれてきたのか。 それはない。 粘土を焼けば土器ができる知識は縄文時代から人々に伝えられてきた技術だ。 自分で作れる土器に対価を払って購うことはしないだろう。 拙著(幻冬舎刊)では、土器は交易の運搬容器として各地に分布することになったと論じた。 酒などの液体や水に濡れては困る塩や米などを商人が土器に入れて運んだと考える方が合理的だ。
購買力のある奈良盆地の人々に、土器に入れた産品を売り付けた結果、各地で生産された土器が巻向を含む盆地の各所から出土したのだ。 政治権力だの、流通拠点だのという実体や内容のないものを持ち出さなくても、十分説明できるのだ。
著者の文章を読んでいると、論証のない事柄がイメージ操作によって本当らしい印象を与えている。 初心者に対しては、自分の独りよがりの歴史でなく、もっと客観的、論理的な古代史の記述を願いたい。
2024年12月号
〇「古事記」の中の九州歴史書の欠片
拙著「いにしえの散歩道」(幻冬舎刊)において「日本書紀」の神代には10部以上の引用文献の存在を指摘した。 「一書曰(あるふみにいわく)」で表示された部分である。 「書」とある以上、伝聞や伝説ではなく書物だと認識できる。
これらの書物はどこで作られたものだろうか。 「記紀」以前に大和地方で編纂されたものとしては、蘇我馬子が主導した「天皇記」「国記」しか知られていない。
神代の記事内容は高天原を中心とした神話、伝説の物語である。 出雲との関係などの内容から、高天原が北九州に当たると推察できる。 したがって神話を含めた九州の歴史書がいくつか存在する可能性を拙著において論じた。
「古事記」の中に九州歴史書の痕跡があるかどうか考えた時、すでに拙著において一ヶ所示している。 八千矛神の記述の中に「自出雲将上坐倭国而(出雲より倭国に上りまさむとして)」と記された箇所である。
「上る」という語を考えた場合、 神話の時代に文献で前述したように、政治の中心は高天原=北九州である。 また歴史年表を考慮した場合、弥生時代に対応するだろう。 この時代もっとも先進地域は、鉄器や錦布が多く出土する北九州だ。
江戸時代、徳川幕府のある江戸から天皇の坐す都へ向かうことを「上る」と言った。 また灘六郷や伏見の酒も江戸に運ばれると「下り酒」として珍重された。 つまり権威が存在する地に向かうことを「上る」と表現したのである。
では前出の「倭国へ上らむ」をどのように解釈すべきだろうか。 神話時代だから神武天皇以前の話である。 その時代は天照大神をはじめとする神々が坐す高天原が中心地となり、それはまた北九州を意味する。 結局八千矛神は北九州に向かったのであり、前述の「倭国」とは九州歴史書が九州に対する呼称として自国を表したと考えられる。
もう一つ「古事記」に九州歴史書の痕跡があった。 それは雄略記の中にある一文「於滋倭国、除吾亦無王、今誰人如此而行(この倭国に吾を除きてまた王は無きを、今誰れしの人ぞかくて行く)」である。 これは(一言主神の)行列が天皇と同様の規模であったことを忿った時に雄略天皇が発した言葉であった。
しかし「我を除いて王は無し」という科白は大和地方ではあり得ない。 「古事記」によれば「王」は120人以上存在する。 また雄略天皇の皇后は若日下部王であり、その父は仁徳天皇の子の大日下王である。 つまり近しい者に「王」がいる雄略天皇が「自分以外に王はいない」という発言は明らかに矛盾している。
前出の雄略記の一文は雄略天皇のものではなく、「王」をただ一人の支配者と理解している地域の文章である。 それは「漢委奴国王」「親魏倭王」「倭の五王」と続く、正しい「王」の意味を理解できる地域、すなわち北九州のものである。 したがって九州歴史書から切り取り貼り付けの盗用した痕跡と見なすことができる。
このことこそ私が「記紀」を「未整理のデータバンク」と呼ぶ所以である。 「記紀」の記載には常に、「何時、何処で、誰が」を疑うべきであり、取り出した一文を以って軽々に論拠とすべきでない。
◎可笑し書評
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◎「嘘」と言うからには「本当」のことを披歴せよ! ★☆☆☆☆
「噓だらけの日本古代史」 倉山満 扶桑社新書
タイトルに魅かれてこの本を買ったが、騙された気分だ。 著者は「要するに大事なのは常識です。」と述べているが、彼の常識に疑問を抱かざるを得ない。 「嘘」と言い切るには、本当のことが分かって言えることだろう。 これが真実だからそれは嘘だと説明できるのだ。 この常識が著者にあるのだろうか。
また著者は「本当のことは『わからない』に向き合う態度が必要なのではないか。」と述べている。「嘘だらけ」とタイトルに標榜しているにもかかわらず、本当のことはわからないと逃げている。 この文章は倭の五王を大和の天皇に対応させる通説に疑問を呈した後の言葉だ。 嘘ばかりと言いつつ、本当と考えられる説を出せないのだ。
結局著者は古代史に興味がないように見える。 通説には文句をつけるが、ではどう考えるかについてそんなことは知らないという立場のようだ。 私は自書において同様に、倭の五王を天皇に比定することはおかしいと思い、本当はどうなのか推考した。 倭王武の上表文を精読し、大和地域の漢字利用の遅れを考慮し、大和の地政学的な不利を勘案すると、倭の五王は北九州に勢力のある豪族とすることが最も合理的だと考察した。
しかし倭の五王=天皇説を唱える人たちを嘘つき呼ばわりするつもりはない。 このような状態は学問において当たり前のことで、嘘というのでなく「諸説あり。」と考えるべきなのだ。 嘘呼ばわりする前に、何らかの本当と考えられる説を提示することが、歴史を論じる者の態度ではないか。
本書を読んでいると、つくづく著者の商売上手を感じる。 内容はともかく「嘘だらけの日本古代史」という過激なタイトルに釣られて本を購入する私のような阿保がいるのだろう。
2024年11月号
〇閑話休題1 古代都市の隕石による崩壊
過日テレビ番組において旧約聖書に記されたソドムとゴモラの消失に対応した、古代遺跡の崩壊に関する原因究明の過程が紹介された。 場所は中東死海近傍のタル・エル・ハマム遺跡である。 発掘現場で破壊層が1~2mの厚さにも成っているのが観察され、通常の災害、火山の噴火、地震、洪水などでは考えられない規模の大災害であった。
タル・エル・ハマム(ハマムの丘)はBC3000頃栄えた都市であったが、たった一回のイベントがBC1700頃に起きた。 高熱にさらされた土器片は表面1mm程がガラス化し、ジルコン結晶が溶けていないことから3000℃に近い高温を浴びたとされた。 残された原因の一つ、落雷について磁化の傾向がないことから否定され、唯一の原因として隕石によると考えられた。ただ隕石落下によるクレーターを近傍に見つけることはできず、落下の証拠はなかった。
最後に残された原因が隕石のエアバースト(空中爆発)だ。これは原子爆弾の爆発に似て、まず猛烈な高熱が地表を襲う。 これにより地表の物は溶かされる。 次いで地表の砂が空中に吸い上げられ、溶けて雨粒のように集まり落下する。 この球体の粒をスフェルールと呼ぶが、遺跡から発見されている。
この地はその後BC1700~1000の青銅器文明後期の間、土器は発見されず文明の空白期間となった。 死海の塩水が巻き上げられ周辺に降り注ぐと、塩害によって農耕が不可能となり無人の地となったのだ。
これらの論理的な証拠の積み上げによって、タル・エル・ハマムの消滅の原因が解明された。 この災厄が旧約聖書に書かれたソドムトとゴモラの天罰の記述に対応するならば、世界最古の隕石事故の記録である。
過去の事象に対する科学的な解明のプロセスに感動を覚えると同時に、これが現代に起きた時の恐怖を想起した。 火星の外側の小惑星ベルトから小惑星が地球に向かうことはありうる。 これは観測によって予測はできるが、防ぐことは可能なのか。 映画「アルマゲドン」のようなSF小説の結末を得ることはできるのだろうか。
もし隕石が海に落下した場合、隕石自体の高熱と海面衝突により発生する高熱と衝撃で海水は一瞬に水蒸気爆発を起こすだろう。 海水の無くなった空間への海水の流入によりどのようなことが起きるのか。 例えば直径100mの隕石を想定して世界最速のコンピューター「富岳」に、どのようなことが起きるのか、津波のような海面変化をシミュレーションして欲しい。
もし東日本大震災時の津波に匹敵する災害の可能性があるのなら、東南海沖地震に加えて隕石事故の予測も災害対策に必要ではないか。 また原子力発電所の安全基準についても、人知を越えた自然の猛威の前に踏みにじられた福島の経験から、このような一見突拍子もない考えに対応する準備をすべきではないか。 あの福島の大惨事から学ぶのなら。
ブログ「荒丸の通説と異なる古代史」に掲載
◎「権威と権力の分離」の歴史
日本の歴史を概観すると世界の国々の歴史と比べ、稀有な政治体制を取り続けたことがわかる。 それは権威と権力が分離した体制である。 中華帝国においては皇帝が権威と権力を兼ね備える絶対的支配者として君臨する。
古代ローマでは共和制においては執政官が、帝政では皇帝が権威と権力を一手に握る。 ただ非常事態の時に元老院は権威ある助言を統治者に与えることがあるが、常にはお目付け役的な補助機関として存在する。
日本において権威と権力が一致した期間は非常に短い。 奈良時代、建武の新政と明治維新後の一時期がそれにあたるだろう。 明治維新の場合、憲法をはじめとする法整備が進むと、天皇は権威として存在し、権力は維新の元勲達の手に委ねられた。
では「権威と権力の分離」はどのように成立し維持されてきたのだろうか。 奈良時代に藤原不比等の死後、娘の宮子、安宿子(光明子)は入内したが、不比等の子の夭逝や反乱の疑いにより没落し藤原氏が外戚として権力を握ることはなかった。
平安時代に入って藤原氏は摂政や関白に就き、徐々に他氏を排除することにより権力を手中にすることになった。 藤原道長がその絶頂期にいた。 しかし上皇が院政を敷き、武士団の力を利用して権力を得ると、藤原氏の摂関政治は衰えた。 院政は皇室内の「権威(天皇)と権力(上皇)の分離」とも言える。
上皇達に利用された武士団はその武力により着実に宮廷内の地位を高めた。 保元、平治の乱を経て権力を握ったのは平氏の棟梁、平清盛であった。 武家政治の始まりであるが、平氏は貴族化し、源氏の源頼朝が権力を奪い、本格的な武家政治の鎌倉幕府を開いた。
しかし幕府の権力も、天皇が武家の棟梁を征夷大将軍に任じることによる「権威と権力の分離」の政体であった。 その後建武の新政により一時的な権威と権力の一致を見たが、短期で瓦解した後室町幕府が成立する。 ただ天皇位が南朝と北朝に分かれ抗争することにより権威の失墜を招き、また足利家の将軍継承の争いから、下克上の時代、すなわち戦国時代を招来した。
戦国大名が覇権を争う混乱から、天下統一を果たした徳川家康が征夷大将軍に任じられた。江戸に幕府を開き「権威と権力の分離」の政体が維持された。
しかし250年後外国からの開国圧力により幕府の威信が低下し明治維新に至った。 明治期における権威と権力の関係は前述したが、第二次世界大戦後、象徴天皇制として「権威と権力の分離」は続いている。
現代のヨーロッパ王国の多くは「君臨すれども統治せず」の政治体制を採っている。 さらに権力の持たない権威のみの大統領制の国もみられる。 現代ではありふれた「権威と権力の分離」の体制を、日本は1300年以上前から採用した非常に稀有な国と言えるかも知れない。
なぜこのような政治体制が生まれ維持されてきたのかの考察が残されている。
◎可笑し書評
Amazonの書籍のコメント欄に投稿した書評を紹介するためのタイトルです。
◎強引な思い込みの連続 ★☆☆☆☆
「日本、中国、朝鮮、古代史の謎を解く」 関裕二 PHP新書
著者は勉強家らしく、豊富な知識を持っているようだが、それらの情報を論理的に構築した仮説へと導くことは苦手のようだ。
まず「はじめに」から「ヤマト建国」という聞き慣れない用語が出てきた。 著者の他の本に詳述しているのかも知れないが、よくわからない。
三世紀後半から四世紀始め頃のことらしい。 古墳時代の真っ只中だ。 ヤマトは地名だ。 それの建国とは? そして富や権力に無縁の人が権力に抗うために集まり、欲望が欠如していたから成立したのが「ヤマト建国」らしい。 そして「考古学者が物証をかき集めて構築した新説」だと言う。
物証=物的証拠とは古墳や遺跡から出土した遺物だろう。 そういう物を集めて、当時使用していた人々の「欲望が欠如している」心情や「権力に抗う」人間性をどう証明するのか。 そのようなことができる考古学者が居るとすれば、占い師並みの技能だろう。
また困った非論理展開がある。 邪馬台国の卑弥呼は二世紀後半から三世紀半ば、ヤマト建国のきっかけとなった纏向遺跡の出現が三世紀初頭、箸墓(古墳)が造られたのが三世紀半ばから四世紀にかけてのことと時系列を示した後、『邪馬台国とヤマト建国は一部が重なり、多くの学者は「連続している」と考える』と記している。
多くの学者? どれ程? この表現は、子供が自分の主張に対する論理的欠如を補う「皆そう言ってるよ。」と言う常套句と同類だ。 資料や情報によって論理を補完してほしい。
纏向遺跡の土器の分布が書かれているが、私見を述べたい。 これは拙著(幻冬舎刊)において考察したものだが、土器が製造地と異なる場所で出土する理由は、土器が交易のための輸送容器だからだ。 液体(酒、醤、蜂蜜)や粉粒物(塩、米、雑穀など)を舟や人で運びながら物々交換すると考えると、纏向遺跡に各地の土器が出土する理由が解る。
北九州からの土器がないのは当然だ。 土器で運ぶ必要のない軽く高価で貴重なものが商品となるからだ。 布類(絹、綿)、装飾品、武器や武具などを思い浮かべると納得がいく。
古代史の中心を大和地域に置きたい人々はかって「近畿を中心とした銅鐸文化圏」を喧伝したが、それが否定されると次に「纏向遺跡」を旗印とした。 しかし客観的には年代的に多層化した複合遺跡のように見える。
種々の遺跡は見つかっているが、都市計画によって建設された王都とは思えない。 纏向の地は扇状地だ。 大雨の際に川の流れが変わりやすい扇状地の真ん中に、誰が王城を築きたいだろうか。
2024年10月号
◎悪癖「推理小説マニア」の典型
拙著「いにしえの散歩道」(幻冬舎刊)において、歴史学者が陥る悪癖の一つに「推理小説マニア」的思考方法を挙げた。 これは日本と中国の歴史書の登場人物に対応を求め、他の可能性を排除する考え方である。 推理小説においては登場人物以外に求める人物(犯人)はいない。 しかし歴史には史書に書かれていない人物の存在を無視すれば、迷路の中を彷徨うことになる。
この悪癖の典型例が二つある。 一つは「倭の五王」を天皇に対応させる不合理な論証である。 これに関しては拙著において詳細な反論を加えた。 もう一つの例は「隋書」に登場する「倭王あり、姓は阿毎、字は多利思比孤」である。「日出ずる所の天子……」の国書を隋の皇帝に送った人物である。
驚くべきことにこの人物が聖徳太子であると教科書に載っている。 一片の合理性もないこの珍説こそ「推理小説マニア」の思考法の典型例である。 上述の「隋書」に登場する人物と聖徳太子のどこに共通点があるのだろうか。
聖徳太子が「倭王」と称されたことがあったか。 「否!」 「阿毎(天)氏」を名乗ったことがあったか。 「否!」 「多利思比孤」と呼ばれたことがあったか。 「否!」
「隋書」に転載された国書を書くことができる程、漢字の理解はあったか。 この点についてはその能力はあったと考えられる。 仏教に帰依し法隆寺を建立した彼には漢文を駆使することは可能だろう。
しかし国書の内容については疑問が残る。 「日出る処の天子(倭王)」と「日没する処の天子(中国皇帝)」を並置し、対等の立場を主張している。 しかし聖徳太子は「十七条の憲法」や「冠位十二階」の制定に見られるように、中華文明に学ぶ姿勢をとっており、対等外交を仕掛ける「国書」の内容とは相容れない。
結局「倭王」と聖徳太子の一致点は同時代人だということしかない。 まさに「推理小説マニア」の面目躍如である。 犯行時間に現場近くにいた人物はこの人しかいないから、この人が犯人だとばかりの「マニア」ぶりである。
このような珍説がまかり通り、教科書にまで載ることに嘆かずにはいられない。 大先生の説に意をとなえることができない権威主義のなせる業か、それとも皇国史観の尻尾をぶら下げている結果なのか、はたまた両方なのか。 子供たちに不合理極まりない説を教えることは止めて欲しい。
なお「隋書」にある「姓は阿毎」の疑問を深く掘り下げると面白い説が浮上したが、それの詳細は拙著「いにしえの散歩道」において論じたので、興味のある方は読んでいただきたい。
◎通説と異なる古代史
・・この記事はブログ「荒丸の通説と異なる古代史」のタイトルを説明したものである。・・
拙著「いにしえの散歩道」において、大和地域が文化度の低い場所で、日本史の表舞台に登場するきっかけは継体天皇の大和進出だとする仮説を論じた。
世間に流布されている通説では、五世紀に宋書に書かれた「倭の五王」は天皇に対応し、倭王武は雄略天皇だとする考えが一般的だ。 さらに二世紀遡って「魏志倭人伝」の邪馬台国の時代だ。 邪馬台国は近畿にあった、いや北九州だと騒がしい。
近畿説を採る者は最近巻向遺跡で発掘された巨大建造物の遺構を卑弥呼の王宮だと勢いづいている。 それに対し九州説を採る者はその遺構をヤマト王権の存在を証明するものだとし、九州と大和に王権が併存したとする折衷案を考え出した。
これらの通説が戦後八十年近く研究されても、確たる日本の古代像に近づけない元凶は何か? それは「倭の五王=天皇」説だ。 この説の誤りが五世紀以前の日本史を迷走させている。 この説の論証が不完全だとする在野の歴史研究者は多いが、歴史学者はこの説に固執している。
そもそも「倭の五王=天皇」説は戦前皇国史観一色の時代の産物である。 我が国において「王」と呼べる人は天皇以外あり得ない。 だからなんとか「倭の五王」を天皇と結び付ける理由を考え、「親子・兄弟関係が似ている」だの、「武の一字が雄略天皇の和名と一致する」など苦肉の論証を行った。
戦後自由な発想で事象を考察できる時代になっても、歴史学者は戦前のお偉い大先生の見解を再吟味することなく踏襲したのだった。 これにより古代は靄に包まれた不透明な視界に閉ざされてきた。
拙著では「倭の五王=天皇」説を支える項目の多くに反論を加え、彼らが九州の豪族だと結論付けた。 ここでその詳細を述べることは控えるが、一つだけ反論を示したい。 それは漢字利用の熟練度の違いである。
倭王武の上表文が宋書に転載されていることを考慮すると、五世紀における漢文の完成度の高さを伺い知ることができる。 また六国諸軍事・安東大将軍位を求めたということは、宋の軍制を熟知し、その位階の文字面を十分理解していたと考えてよいだろう。
ところが大和地域において、八世紀の「記紀」に載せられた歌を見ると、倭語(古代の大和言葉)の一音毎に漢字一文字を表音記号として用いていることがわかる。 また「日本書紀」では表意漢字の意味を、訓読みの注釈(訓注)を付けて説明している。
この漢字の理解度の差違は北九州と大和地域が異なる漢字文化レベルにあることを物語っている。 このような事実を無視する珍説「倭の五王=天皇」にいつまでしがみついているのだろう。 この説の再検討がない限り古代史の迷走状態は続く。
◎可笑し書評
Amazonの書籍のコメント欄に投稿した書評を紹介するためのタイトルです。
◎突っ込み疲れのする本だ! ★☆☆☆☆
「なぜ『日本書紀』は古代史を偽装したのか」 関裕二 じっぴコンパクト新書
著者は「記紀」を歴史的資料としてではなく、自分の思い込の材料として考えているようだ。 例えば神功皇后紀では『魏志』引用についてだ。 「『日本書紀』は女傑神功皇后が邪馬台国のヒミコであったと証言していることになる。」と結論している。 しかし『日本書紀』をよく読めばまったく逆だと言うことが解る。
つまり神功皇后の記述の中で、「魏志に曰く」の引用文は、本文とはまったく関連なく唐突に挿入されている。 「倭の女王=神功皇后」とする意図も操作も見られない。 ただうっかり者がそう早とちりをすることを期待しているのかもしれない。
「実在の崇神天皇をモデルに、神武天皇という『神聖な王』を創作したのだろうとされている。」 創作したのは著者だろう。 続けて「第十代の崇神天皇が実在のヤマトの初代王であったと可能性が高く、彼の在位はおそらく三世紀末から四世紀にかけての時期に当たっていると考えられる。」 何でこうなるの!!
「筆者は神功皇后を実在人物と考えていて、しかもこの女人こそが『日本書紀』や古代史を考える上で鍵を握る人物とみている。」 実在するしないは著者の考え一つらしい。
「天武天皇は邪馬台国の女王と密接な関係を持っていたのであり、それを抹殺したのが『日本書紀』にほかならない。」 何でやねん!!
「『日本書紀』以前の「帝紀」や「旧辞」といった『日本書紀』の親本が存在したこと、さらにそれ以前にも歴史書が存在していた可能性も高くなってきたわけである。」
この文章は本質をついた部分のある内容なので真面目に論じたい。 「帝紀」と「旧辞」は存在しない。 正確に言うと蘇我馬子が撰した「天皇記」と「国記」のことなのだ。
ハリーポッターに出てくる“名前を言ってはいけないあの人”のように、逆賊蘇我氏の歴史書は歴史から消され、その名前が言えなくなったのだ。 それ故「天皇記」は帝紀、帝皇日継、先紀と、「国記」は本辞、旧辞、先代旧辞と様々な表現(隠語)で人々の口にのぼることになった。 『古事記』序文の「帝紀」や「本辞」などを「天皇紀」と「国記」に置き換えても、何ら違和感はない。 この二部の歴史書から蘇我氏の業績を割愛し再構成したものが「古事記」である。
「古事記」に加え、さらに北九州(高天原)の神話を含む歴史書を参考にして、『日本書紀』を撰上したと考えられる。 この考察は拙著(幻冬舎刊)において詳述している。 九州歴史書にあった邪馬台国や卑弥呼の名を伏せ、倭の五王の史実を無視したのは、大和政権と無縁の歴史だったからだろう。
とにかく突っ込み疲れのする本である。
2024年9月号
◎大和における漢字利用の変遷
大和における最初の書物(歴史書)の編纂は蘇我氏主導による「天皇記」「国記」と考えられる。 七世紀前期の頃である。 これらの書物は漢文で書かれていたと推察される。 倭語(古代大和言葉)を文章化する方法はなかったと思われるからだ。
約百年後「記紀」の編纂が行われた。 その文体はやはり漢文であった。 ところが歌の部分は、倭語一音毎に漢字一字を表音記号として用いていた。 現代人の感覚からすると、和歌をローマ字で書いているような違和感があるのだが、当時の人にとっては歌に込めた気持ちを伝える最良の方法だったのかも知れない。
また漢字の音読みに対し、訓読みの註釈(訓註)を付けて表意漢字の意味を解説している。 このことから百年経過しても漢字の理解がまったく進歩していないことがわかる。 なぜこのようなことが起きたのか。 拙書「いにしえの散歩道」(幻冬舎刊)で示したように、仏教の普及と関係すると考えると理解できる。
六世紀仏教の伝来により、崇仏派と排仏派の争いがあった。 崇仏派は蘇我氏とそれに関係する皇族、排仏派は物部氏や中臣氏の豪族であった。 仏教に帰依するということは仏典、経文の理解が不可欠だろう。 したがって漢字で書かれたそれらを読むためには漢字を学ぶことが必要になる。 漢字の習熟の結果が聖徳太子の十七条の憲法や冠位十二階の制定に繋がるのだろう。 「天皇記」「国記」の編纂事業も識字能力が発揮されただろう。そしてそれらの写本を作り、蘇我氏に繋がる平群氏、羽田氏、許勢氏などにも配布されたと思われる。
しかし乙巳の変が起き、その後大化の改新が行われた。 その主導者は排仏派の中大兄皇子と中臣鎌足である。 彼らには十分な漢字の知識はなかった。 また学ぶ努力も怠ったように思える。 その結果「記紀」において漢字の註釈が数多く加えられた。
「古事記」序文に「帝紀」「本辞」という書物らしい名が登場する。 岩波文庫版「古事記」には「帝紀、帝皇日継、先紀」は各天皇の即位から崩御に至る皇室の記録とあり、また「本辞、旧辞、先代旧辞」は神話や伝説や歌物語を内容としたものと説明されている。
ここで疑問が生じる。 これらの書物はどのような文字で記されてたのか。 当然漢字だろう。 誰が書いたのか。 書かれた文字を読めない天皇や皇族は何が書かれているか意に介さなかったのか。 何か変な違和感がある。
また「古事記」序文を精読すると、「帝紀、帝皇日継、先紀」と「本辞、旧辞、先代旧辞」はそれぞれ同じ書物を指していると推察できる。 なぜこのような多様な表現をしたのだろうか。 思い至った結論は、二つの書物は「天皇記」と「国記」のことを示しているということだ。 ハリーポッターに出てくる゛名前を言ってはいけないあの人゛のように、乙巳の変で逆賊になった蘇我氏の歴史書の名前を語ることはできなくなった。 そのため「天皇記」と「国記」は様々な表現(隠語)で人々の口に上ることになったのだ。
「古事記」序文の書物類を「天皇記」「国記」に置き換えても何ら違和感はない。 豪族たちが所持しているこの二部の歴史書をかき集め、その内容の中から蘇我氏の業績を削除し、再構成したものが「古事記」である。
もし「天皇記」「国記」の漢字文化がそのまま持続、進化したならば、今の日本語はなかったかもしれない。 「日本書紀」において訓読みの漢字学習が普及することにより、倭語を文字化する時、漢字の音・訓に加えそれらを繋ぐ文字すなわち仮名の発展に進んだように思われる。(9月8日発 ブログ「荒丸の通説と異なる古代史」に掲載)
◎皇国史観の尻尾
多くの歴史学者は皇国史観の尻尾をぶら下げているが、それに気づいていない。この事を示す端的な例が「王」の使用法である。皇国史観一色の戦前において、「王」が付く人物、「親魏倭王」「倭の五王」「倭王 阿毎多利思比孤」はすべて天皇に対応するとされた。
「王」の正しい語義、国における唯一の統治者は天皇以外考慮の対象にならなかった。ところが正しい語義とは異なる意味で「王」を用いる地域があった。大和地域である。
ここでの「王」とは皇位継承権のない皇子に付けられた称号である。皇位継承権がある皇子には命、尊(ミコト)の称号が与えられた。『古事記』の天皇系図を見れば明らかである。『古事記』には120人を越える「王」が登場する。
この地での「ヤマト王権」とはどのような意味を持つのか。皇位継承権のない「王」達の権力構造という陳腐な表現になることに、歴史学者は気付かないのか、それとも無視しているのか。「王」は天皇以外に存在しないという固定観念、これこそ皇国史観の為せる業だろう。
「倭の五王」が天皇に対応することが通説になっている。しかし門外漢、特に実験結果を論理的に考察することに長けた理科系の人たちにとって、「倭の五王=天皇」説の論証過程に疑問を呈する人は多い。両者の親子、兄弟関係が似ているという。私にも親も子もあり、兄も一人いる。同時代の人々はほとんど親子関係があり、兄弟のいる人も多いはずだ。なぜ天皇家に限るのだろう。皇国史観の尻尾が見え隠れする。
また倭王武の「武」と大長谷若武命(雄略天皇)の名の一文字「武」をとりあげて同一人物とするこじつけ理論がまかり通っている。『古事記』では「武」ではなく「建」を用いている。つまり「倭王武」の「武」は「ブ」であり、雄略天皇の名は漢字に関係なく「タケ」の読みとなる。これを考えると、「武」で同一人とするのは、強引な理論展開と言わざるを得ない。
「大王」「大王家」という語もよく目にする。これは鉄剣に象嵌された文字に由来する。明治期に江田船山古墳から出土した鉄刀を大正期に研いで、「大王」の文字が現れたことに始まる。当然皇国史観に基づき「大王=天皇」となった。
ところが昭和43年稲荷山古墳から出土した鉄剣に象嵌された文字が「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」と読めることから、戦前の大先生の思想そのままに雄略天皇だとして、これが通説になっている。しかし大和において皇位継承権のない「王」達の中の一番の大物「大王」が天皇というのはおかしくないだろうか。歴史学者は皇国史観の尻尾を振り振り、なんの疑問も持たないようだ。
また「大王」をオオキミと読ませる歴史学者がいる。この読み方は「王」をキミと読ませたい帳尻あわせの屁理屈である。「古事記」に登場する120人の「王」はオウと発音しているのだから、「大王」となるとダイオウが正しい読みだろう。
オオキミは「淤富岐美」「意富岐美」と歌に詠まれており、「大君」と変換されている。「君」とは大切な人、身分の高い人のことで、「大君」は天皇やそれに近い人を表す語である。「大王」をオオキミと読む人も皇国史観の尻尾をぶら下げている人である。
皇国史観の尻尾をなくす努力はまず「倭の五王=天皇家」説の再検討から始めるべきだろう。論証済みと考えられてきた証拠立てがいかに不合理、不十分なものかを客観的に理解できるだろうか。(9月2日発)
◎可笑し書評
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◎「サイエンス」はふりかけで後は思い付き。 ★☆☆☆☆
古代史サイエンス 金澤正由樹著 鳥影社
遺伝子や日食の科学データを用いた話から、第三章以降は内容がサイエンスには程遠いひらめきと称する思い付き、妄想の展開に驚いた。 私は自著で「推理小説マニア」的発想を戒めてきた。 すなわち日本と中国の歴史書から対応する人物を求める悪癖である。 ところが本書ではそのような手法により、多くの登場人物が次から次へと出てくる。
卑弥呼は死後、台与の代に神格化され天照大神となる。 この神を崇めた天皇が崇神天皇である。 漢風諡号にピッタリ合う。 このように登場人物が顔をそろえると、食傷気味になる。 この主張に関する状況証拠は提示されていない。
神武天皇の東征は邪馬台国の後援があれば可能だと主張している。 たしかに弥生時代に一豪族が征服戦に臨んでも、兵站のことや残された無防備な集落を考えると、後ろ盾があれば可能かもしれない。 ただその条件を補完する資料はない。 逆に条件がなくなれば、東征などありえないことになる。
日本書紀に卑弥呼や邪馬台国の名がないのは、卑弥呼=天照大神だからだと書いてある。 だとしたらなぜ神功皇后紀に魏志倭人伝の記事を卑弥呼、邪馬台国の名を伏せて引用したのだろう。 「魏志に云はく。」と出典を明記しているのだから、魏志倭人伝を読めばわかることだろう。 もし卑弥呼=天照大神であるなら、魏志を引用しなければよい。
同じように倭の五王の記事がないのは、昔中国の家来だった「恥ずかしい過去」があるからだと主張している。 遣隋使、遣唐使を送り出して中国文明を取り入れようとしていた時期に「恥ずかしい過去」と誰が思う。 そのような感情論よりも、もっと考えなければならないことが有る。 倭の五王は使持節都・諸軍事・安東大将軍を求め、倭王武は除正された。 このことは倭王たちが中国の軍制を熟知していたに他ならない。 軍制だけなのか。政治、経済の知識も、あったと考える方が理に適っている。 ところが日本書紀にその知識の片りんも見いだせない。 その結果倭の五王が天皇家とは無関係と推論すべきだろう。
サイエンスと標榜しながら、推理小説マニアの思考法は勘弁願いたい。(ブログ「荒丸の通説と異なる古代史」に掲載)
2024年8月号
◎「大和王権」は二重の錯誤
「大和王権」という用語を古代史において安直に用いているが、この用語の使用には二重の誤りがあることに気付くべきだ。まず最初の錯誤は「王権」の語義から導かれる。
「古事記」において大和天皇家に何人の「王」が登場するかご存じだろうか。安寧天皇(三代)の孫に「二王坐(二人の王が坐す)。」とあり、本格的には開化天皇(九代)から用明天皇(三一代)の御子まで120人を越えている。ここで一つの試算をしたい。古墳時代から飛鳥時代初期までを大雑把に400年とする。「王」達の平均余命を40年とする。この条件から算出される結果は、平均して常に10名ほどの「王」が存在することになる。
「王権」の語義を厳密に吟味するならば、大和地域における「王権」とはこの10名ほどの「王」達が支配する権力構造となる。大和地域での「王」の特殊な使用法は「いにしえの散歩道」の二三話に詳述したが、この地での「王権」とは上記のように考えるべきだろう。
百歩譲って「大和王権」が大和天皇家の政治権力を表現しているとすれば、その実像、実態は半世紀以上にわたり何も明らかにされていない。この地に多くの巨大古墳がある、発掘すると多くの遺物が出土する、最も古い前方後円墳とされる箸墓古墳があると言った曖昧模糊とした理由によりこの説が成り立っている。これが第二の錯誤である。
巨大古墳が軍事大国の証明にならないことは、ここの7月号で説明した。古墳の築造に経済力を消費すれば、軍事費に割く余力は残っていないだろう。また発掘現場からお宝がザクザク見つかっているが、どこで製造されたかわかっていない。日本の中で最も古代遺跡の発掘が進んでいる大和地域において古代の精緻な遺物を造る工房がほとんど見つかっていない。この事はこれらの遺物が外部からもたらされたと考えた方が、経済大国の大和の地での購買資力の観点から理にかなっている。
さらに「大和王権」が倭国全体を支配することがあり得ない理由がある。それは漢字利用の未熟さである。「倭の五王」の一人「倭王武」は雄略天皇だとする通説が流布されている。もしそうであるなら、五世紀に大和地方には漢字文化が花咲いていたことになる。「倭王武」の宋皇帝への上奏文が宋書に引用されりほど完成度の高い文章だったからだ。
ところが「古事記」や「日本書紀」が編纂された八世紀前半には、漢字の訓読みに注釈(訓注)が必要なほど漢字の理解は低水準にある。この漢字利用の退嬰は何を意味するのだろう。漢字を使用することの利便性、有効性を考慮すると、開花した漢字文化を放棄するとは考えにくい。
単純に考えるならば、「倭王武」の上表文は大和の地で書かれたものではない、すなわち「倭王武=雄略天皇」でないという結論になる。この地での漢字利用は七世紀の仏教伝来と密接に関係しており、古墳時代には漢字利用は未熟な状態にあったと考えられる。したがって完成度の高い漢字文化を持つ「倭の五王」と、漢字を十分利用できない大和天皇家のどちらが「王権」と呼ぶに相応しいか明らかだろう。
「王権」という用語をもっと厳密かつ合理的に考えるべきだろう。(8月19日発)
◎神武神武天皇東進の真実味(8月号)
「古事記」や「日本書紀」では神武天皇が九州日向の国から東に向かい、大和国の一角に領地を得たとの記述がある。「日本書紀」によると東方の国を自領とするため軍を起こしたとする「神武東征」伝説が伝えられている。
しかし拙書「いにしえの散歩道」において弥生時代に軍勢を率いて遠征する不合理性を論じ、災害にあって故郷を捨て新たな入植地を求める開拓者集団と推察した。したがって「東征」より「東進」が相応しい表現だと考える。
この「神武天皇の東進」が虚構の伝説か、伝承された史実なのかを考えさせる契機があった。それは紀伊山地の霊場とその参詣道について、ユネスコより世界遺産に認定された時である。霊場とは熊野三山(熊野本宮大社、熊野那智大社、熊野速玉大社)や高野山を指し、その参詣道を含めて世界遺産となった。
その時学生時代に疑問に思った事柄を思い出した。平安時代に上皇が再三熊野の霊場に参詣した史実があるのだが、なぜ秘境に近いこの地にお参りしたのだろうか。昭和30年代まで紀伊山地は、鉄道も道路も未整備の不便な土地で、「陸の孤島」と呼ばれていた。人や物資を運ぶ時も、陸路を採るよりも船で運ぶ方がより便利だったからだ。
半世紀前でもこのような状態の地に1000年前の平安時代に上皇が熊野詣でを行うのは大変なことと思われる。野盗などに対抗するために護衛の人数は少なくないだろう。身の回りの世話や食事を作る者も要るはずだ。そして彼等の食糧や日用品を積んだ荷駄も相当な量となるだろう。これ程までの大仰な用意をして、なぜ熊野詣でをしたのだろうか。
平安時代以前に熊野地方に所縁のある皇族はいたのかを考えると、唯一人存在した。神武天皇である。神武天皇は熊野川を遡行し奈良盆地の南端、吉野や宇陀の地に侵攻したことが「記紀」に記載されている。上皇たちはこの神武天皇の旅程を追体験したかったのではないか。今で言うところの「聖地巡礼」だ。ただ「記紀」には熊野の地にある信仰の対象について何も述べられていない。在地の「熊野坐神社(熊野本宮大社)」に神武天皇が戦勝を祈願したことが、皇室内に伝承されていたのではないだろうか。
このような事に思い至った時、逆に神武東進伝説が史実だったのではないかと考えた。それ故「記紀」の神武天皇の東進部分をバカ正直に解釈した。神武天皇の行跡を当時の歴史状況と擦り合わせて推論を加えたものが、拙書「いにしえの散歩道」の第二十四話、第二十五話にまとめた話である。(8月1日発 ブログ「荒丸の通説と異なる古代史」に掲載)
2024年7月号
◎面白意見、発見!!
ネットを見ていると、拙書「いにしえの散歩道」を斜め読みした面白い意見があった。
≪ 著者(大津荒丸)自身が、「随筆」だと書ているわけだから、目くじら立てるのも大人げないけど、購入したことに後悔しきり
古代史を研究する人を「推理小説マニア」とか「つまみ食いの解釈」とか・・・おいおい、「天に向かって唾を吐く」って諺をご存じだろうか?
生野先生、曰く。 「解釈」ではなく「解明」を!。
考古学と文献史学が両輪となった「歴史科学」の確立を! ≫
〈「随筆」と言っているから目くじらを立てることもないが〉と断りながら、大層ご立腹の様子。〈古代史を研究する人を「推理小説マニア」とか「つまみ食いの解釈」とか〉と怒っているが、何に対してだろう。拙書では歴史学者が陥る悪癖としてそのように言い、その例をあげて説明したはずだ。その事には触れることもなく、また研究者全般に対してのことと曲解している。
また〈「天に向かって唾を吐く」って諺をご存じだろうか?〉とは拙書の何を例えているのだろうか。科学や学問の分野でこのような俚諺を持ち出されると、「権威に楯突くと、痛い目に遭うぞ!」と脅されている気分になる。
極め付きは〈解釈より解明を。〉と言う文章に驚いたことだ。古代史、古墳時代や弥生時代において、直接証拠をもって論理的に解明された史実が存在するのか?有れば教えて頂きたい。
私の考えでは、古代史は状況証拠を積み上げた解釈しかない。それぞれの状況証拠の扱い方、評価の仕方によって、解釈は分かれる。そのような種々の説の中から、最も論理に整合性のあるものを一応通説としているのではないか。しかし別の情報が加わった時には、通説は改められるだろう。
古代史を解明されたものと理解している人がいるとすれば、それは科学とは考え難く、ある種信仰であったり、権威主義の押し付けと見なすべきだ。(7月19日発 ブログ「荒丸の通説と異なる古代史」に掲載)
◎巨大古墳は軍事大国の証しか?
大和(奈良県)や河内(大阪府の一部)に巨大古墳が数多くあることから、大和に古墳時代当初から、大和に倭国(日本)全体を統治する権力が存在すると見なされてきた。 はたしてそれが正しいのか? 合理的な論理なのか? 我々は現代人の眼で古代を観ていないだろうか。
奈良盆地は大和川の支流が葉脈のように広がり、豊富な水を供給していた。 かって湖だった盆地は動植物が沈殿、堆積した肥沃な地でもあった。 このような土地に稲作を試みる弥生人が入植するのは時間の問題だった。
生産性の高い田畑は多くの人口を支え、人口増がさらなる新田開発へとつながった。 西隣の河内でも、大和川の運ぶ土砂が河内湖に堆積し稲作可耕地を増やしていた。このように人口が多く農業生産性の高い大和地域は一次産業を基盤とした「経済大国」と言えるだろう。
ここで現代人は大和地域が「経済大国」ならば、それは「政治大国」であり、「軍事強国」だと考える。 したがって大和の軍事力を背景に倭国を広く支配していた証拠だとする。 確かに近現代の世界史においても、「経済大国」が軍事力を背景に覇権国家となる図式が定着している。 ところがこの図式には現代人が失念している重要な条件がある。 それは持てる経済力を軍備に傾注することである。 帝国主義の時代、列強各国は富国強兵策を採り、植民地獲得に走った。 日本も明治維新後に西欧列強に遅れをとらないように、経済力以上の軍備増強を図った。
では古墳時代に経済力は何に充てられていたのか。 答えは簡単である。 時代の名が示すように古墳の築造である。 「経済大国」では巨大古墳が、経済力の劣る地域では中小の古墳が造られた。 吉備地方(岡山県)に巨大古墳があるのは、この地域に巨大古墳を築造できる経済力があったのだろう。
以上の考察から、古墳時代にはそれぞれの地域の経済力に相応しい大きさの古墳を築造することにより、軍備に充てる経済的余裕がないとの結論が得られるのではないだろうか。 したがって大和地域の巨大古墳の存在は高い経済力を示してはいるが、「経済大国」が倭国全体を支配するほどの軍事力を持てなかったと考える方が合理的だ。(7月4日発 ブログ「荒丸の通説と異なる古代史」に掲載)